すべての本は歌詞カードになる

 これまでいろんな本を読んできたのに、世界に対する理解が広がったり深まったりしたように思えない。例えばMみたいに論理的に説明したり、「これを理解した」というようなことが言えない。それは頭が悪いからだとか、記憶力がないからだとか、読書の目的を明確にしていないからだとか言ってきたし、こういう指摘はいくらでも当てはまるんだけど、いま、ふと、どんな本でもそれが哲学書でも、科学書でも、小説のように何かを〈体験〉するように読んでるのではないかと思った。何か見識を身につけることが実は目的ではなかったのだ。哲学書を読んでいるまさにそのとき、科学書を読んでいるまさにそのとき、詩集を読んでいるまさにそのとき、それぞれ独特の感覚が頭の中に広がる。そのそれぞれの文体に脳を刺激することばの魅力があって、それに病みつきになる。  もし本を、文章を意味内容論理ではなく、文体が刻み織り成す音韻やリズムで読んでいるならば、すべての本は詩集、歌詞カードになる。そんな読書を通しては音韻とリズムに同化できても、意味内容に対しては無抵抗の受容しかできず、理解が進まないのは当然だと思ったり。

追記)少し前に、本を読むのは、じぶんに都合の良い意見を読むことでじぶんを肯定するためだと考えたことがあったけど、こういうときは意味内容で文中で都合のいいところだけ読んでいる気がする。

「行為としての写真論」にむけて

 今あるほとんどの写真論は物足りない。写真はテクノロジーが進化して、あるいは現代美術と接近して、私たちが写真に接触するその形を増やしたり減らしたりしている。そして写真論といえば、杉本博司が現代美術として評価されることもあれば、メディア論として展開されることもある。でもこれだけでは物足りない。では何が足りないか。答えを先に言うとそれは「撮る」ということを置き去りしてしまっているからだと、ぼくは思っている。写真論を展開するときのほとんどが、すでに「撮られた写真」を対象にする。そうすることで写真の緻密な分析が進んだと思う。またじぶんが撮っていない写真でリタッチされていない写真を見る機会は少ない。そんな日々誕生し続ける「撮られた写真」にはまだまだ語り白はあるかもしれない。でも「撮られた写真」も撮るという行為を抜きには生まれない(撮るという行為を抜きに写真を成立させようとする現代美術/作品もありますが)ことを念頭に、「行為としての写真論*1」を構想してみたい。

 実はこのような話を日本で一番熱心にしていたのは荒木経惟だと思う。荒木経惟は写真集だけではなくて、大量の著作があるけど、『写真への旅』には「肉眼戦」という言葉が出てくる。これはアラーキーらしい言葉遊びではあるんだけど、荒木経惟の頭には間違いなくからだを伴った行為としての(写真)撮影がある。しかし読んで欲しいけど、荒木経惟の文章も物足りない。わがままかもしれない。なぜこんなこと言い出してるのかと言うと。じぶんがなんとなく写真を撮り始めてからどちらかと言うとほとんど風景や静物にカメラを向けて作品化してきたけど、気が向いて人にカメラを向けた時のどぎまぎした感じが、これって人とのコミュニケーション足りえるのではと思ったり。もっと言えばこの撮影という行為が持っている、イメージを形作る被写体への作用、これについて話さなければ写真のことについて何か言ったことにならないのでは思ったりして*2。でも目にする写真論にはなかなかこのことが書いてなかった。それと写真サークルの後輩から伝え聞いたある人のエピソードがある。その人は好きでじぶんの好きなように写真を撮っていたのだけど、いわゆる商業写真を撮るようになって、撮りたいわけでもない写真を撮るようになってわけが分からなくなって、一度持ってた機材も売ってしまって写真を撮ることをやめてしまう。でもその人は写真が捨てきれず手元に残っていたカメラで温泉を撮り始める。この話を聞いて、もうこれは写真の観賞することより撮影こそが人を惹きつけてやまない写真の独自性、つまりは写真論足りえるのではと思った(バカ)*3

 写真を好きで撮ったことがある人は、写真を撮ってる時のあの感覚、それも一枚だけではなくて被写体を前にして、何枚も何枚も費やしてしまう時の緊張と興奮を覚えていいないだろうか。そして静かに微細に繰り広げられる被写体と往還するやりとり。熱心に撮らないよという人は、電車の中でiPhoneをはっきりとじぶんに向けられることを想像してほしい。一方で、全くその空間・瞬間に同化しては撮れない、どこか一歩引いた位置からしか撮れないということが写真を撮ったことがある人はわかるのではないでしょうか。カメラを向ける/向けられるというのはそれだけそこに特殊な空間、時間が広がるということでもある。これを掬い取ってみたい。写真は他の芸術よりもお手軽というか、間口は広いと思う。芸術として、あるいは作品としてではなくても写真を撮ったことがある人ってすごい人数なんじゃないか。だからこそ写真を撮ることについて言葉を尽くすことでもって豊かな何かが見えてくると思う。ネットで調べる限り(すいません!)あんがいこの話はしている人が少ないようで、東京外国語大学カンボジア語専攻の滝沢学さんが(なぜか!)『写真論―「撮る」ことから写真を眺めて―』*4を書かれている。滝沢さんは「はじめに」の中で分かりやすくこの写真論の問題を整理されている。

「写真とは何か」という哲学的な問いには答えられても、「なぜ人は写真を撮るのか」というある種の心理学的な問いには答えられずいた。

賛否はとりあえずこの滝沢さんの論文を読み進めることから始めようと思っています。もしこういう話を深くしている人が他にいたら、助けると思ってこれからの文章が無駄になる前に早めにご教示下さいますよう、よろしくお願い致します。

*1:細かい話をすると、これは撮影論ではあるんだけど撮影論というと、どうしても技術論が中心になってしまうので、あくまで写真論というより大きな枠組の中で、撮影という行為の価値を取り上げ直したい

*2:そうするとこの話は被写体をポートレートに限定することになる?

*3:同じ撮影でもでもどちらかと言えばこのような話は映画撮影の方で掘り下げられているような気がする

*4:http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kidlat/soturon/TakizawaSoturon2011.pdf

『ザ・マスター』を観て。

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予告編を見た時にうっすら気にはなっていて、一昨日気分が最大級に落ち込んだ時TSUTAYAに借りに行った。 (予告編には本編に登場しないカットがいくつかある、どれもいい画だと思うのに残念) そのローな気分自体はTSUTAYAの可愛い店員さんと話したことで解消してしまって、家に変える頃にはそこまでいなければという気持ちではなくなったけど。

が、見るとサイコーに良くて一気に2回観た。 なにがそんなに今のじぶんにひっかかるか。 自分にとってのこの映画のテーマはなんだろうかと考えた。 それは絶対的な正しさだけが人を救うのではないということだ。

映画の最後、イギリスの女とセックスしながら”コーズメソッド”を試したり笑い合ったりした後、砂の女の隣に横たわったクエルの穏やかさ(じぶんはクエルのカオにそこまではっきりとみてとれなかったけど前のシーンから穏やさは感じられた)からは、この男の魂が救われたと思える。

どうしてクエルが救われたか。面白いのはクエルが最終的に行き着いたこの世界に対する考え方を示すことなく、言い換えれば”コーズ・メソッド”よりも「科学的」で「正しい」価値観を手に入れることが出来たからではないということで。少なくともクエルが救われるには宗教や「正しさ」は必要なかったわけだ。「正しさ」の代わりにクエルを救ったのは、ランカスター・ドットとの出会いと別れであったし、同性愛も親子とも親友とも師弟、そのどれとも引けをとらないような関係で一緒に時間を過ごしたことであったし、思い続けていた女の子に会いに行って、今どうなっているかを知ることだった。

なんというか、、、その、、、思想とか価値観とか宗教と言ってもいいのだけど、考え方が変わる以外のことで人が救われているところをほんとに見れた気がして、泣いてはないけど感動した。なんかまだ言い切れてないけど。

人を救ってくれるのはいつも「正しさ」というかある考え方ではないということだ。 これは人が救われれば、何でも良いと言ってるわけでもない。 何に救われるのかわからない。可愛いTSUTAYAの店員さんとのたまたまの出会いかも。

ちなみに、町山智浩の映画塾が『ザ・マスター』を扱っていて、町山さんお得意の情報量の多さで、シーンの繋がりの悪さ、説明の少なさからわかりくいこの映画を説明しているのだけど、監督はP・T・アンダーソンは天才的な監督らしく、皮肉を込めて町山は演出が天才的すぎてすごいことがテーマであるように見えてしまうことがこの映画を分かりにくくしている原因だと指摘する。確かにストーリー上そこまで時間を割くか?とう場面がめちゃくちゃかっこよかったりする。この監督は家族がテーマであることが多く、特に父親と監督自身が投影されたキャラクターが出てくるらしい。個人的には「救いと出会いの関係」、これは十分に大きなテーマたり得ていると思っている。まあ規模は小さいか。

町山智浩の映画塾!「ザ・マスター」<予習編> 【WOWOW】#125 - YouTube

町山智浩の映画塾!「ザ・マスター」<復習編> 【WOWOW】#125 - YouTube

あ、あと作品内時代が重なりそうだけどサリンジャーの世界観と似ているんじゃないかなと思ったりした。冒頭シーンの海の白く輝く浜辺と海の感じは『バナナフィッシュにうってつけの日』にピッタリだと思う。

中山可穂『マラケシュ心中』:不幸が好きな人

マラケシュ心中 (講談社文庫)

マラケシュ心中 (講談社文庫)

 自分から不幸になることを密かに望んでる人はいる。

 破滅願望と言ったらいいんだろうか。あなたの周りにもそんな女性はいないだろうか。(というかこの本を教えてくれたのはそういう女性だった)。そんな女性が主人公の緒川絢彦(♀:男名のペンネーム)と名乗る詩人である。絢彦の視点を通して進んでいくこの物語は、同性愛を中心としてどんどんジェットコースター式に破滅に向かっていく。絢彦は無意識の内に自分が幸福な状況にいることは分かっていながらもよりも、強く、そして長く自分の感情が揺さぶられる不幸という状況を求めてしまうらしい。そーいう自分の感情のうねりを絢彦は詩人らしく「愛」と呼ぶわけだがこれが本当に愛と呼べる物なのかはおいといて、その結果日本人からしたら世界の果てとも言えるマラケシュまで行っちゃうわけだ。さすがに絢彦級の破滅願望を抱いている人はそういないだろう。

 この本の面白さは読み終わった後、意地悪な想像に駆り立ててくれるところだ。物語は終わりこそハッピーエンドになっているわけだけど、不幸の中に喜ぶ様にして飛び込んでいく彼女の姿を見届けてきた読者としては、この女がこんな幸せで満足するわけねーだろ、この後どうやらかすんだ?と期待してしまうのである。『マラケシュ心中』の続編はないらしい。だから読者の想像に任せてくれていると考えたいところだが、次は相手の女性の「死」ぐらいしかない気もする。

 この本を教えてくれた女性は大絶賛していた。どーしてかは聞きそびれたけど。

本を買い控え、本棚を整理せよ!

自分の考え方や意識は本の存在とそのあり方に、 密接に関係していると思っている。 そして昨日、本棚の整理をした。

ちょっと前から部屋に本が多い気がしていて、 ただ本が多いだけならいいんだけども、 読みたい本と読んだ本と読みたくて買った本と見栄で買った本が混ざって、 本棚は混沌としていた。

中でも見栄で買って置いてある本がやっかいで、 実際に部屋のスペースを占領している以上、 興味のないモノが本棚=部屋=自分の中に、 常に存在していたことになる。 その分だけ自分が興味のあるものが、 ここから押し出されてしまっているような気がした。 いつ買ったかわからないような本は、 早く読まないといけないというプレッシャーあるし、 買ってから時間経ったものについては読んでいても楽しくない。 本にも鮮度があるらしい。

まず読んであるにせよ読んでないにせよ、 あまり興味があるとは思えない本を除いた。 すると本棚から半分以上の本がなくなった。 もちろん自分が興味がないと思っていなかった本が、 あとから繋がったりすることはあるかもしれないけど、 それよりも本の山今目の前にあることの方が苦痛だった。 部屋に置いておくにしても別に分けておいたほうがよい。

自分の興味があることだけに囲まれることが 健康的ではないという話もある。 視野が狭くなる可能性があるので、 ノイズとなる情報も入れる窓口が必要なのだ。 なので部屋の本棚をストック、twitterfeedlyやpocketをフローとして、 ネットで広く情報を集めノイズを入れることにした。 本棚という拠点があれば新しく入ってくる情報を関連付けられるし相対化できる。

整理した本棚は上から、 読んでない本/漫画/一般本/写真集・大型本/雑誌・資料にした。 読んだ本は右から順に詰めてある程度スペースを残した。

整理に苦労したのは雑誌で、 雑誌はそもそもノイズを呼び込むのが役目なので、 全ての雑誌が取り除く対象になってしまう。 そこで今回は、今も興味がある特集が組まれているもの、 集めることに意味になっているもの、 グラビアなどその雑誌を開く意図がわかるものは残した。

村上春樹が長編に加えて短編を書くことで、 自分の文章のネジを締めるという表現をしていたけど、 本棚の整理はこれに近かもしれん。 自分の身体が引き締められたようだ。 まだ部屋には本棚から除いた本が残っているけど、 本棚を整理したおかげで精神的にもすっきりした。 本の物理的な配置と頭の中にある情報の配置はたぶん関係している。

あーすっきりした。

本谷有希子『自分を好きになる方法』:自意識との決着はついたとも言えなくもない

自分を好きになる方法

自分を好きになる方法

  自意識はつまり自分がどう見られていることかという意識で、これが気になって仕方がないのが自意識過剰だ。自意識過剰の状態になってしまうとその場その場でどう「自然に」振る舞っていいか分からなくなりさらに自意識を強めるという蟻の巣地獄に陥ってしまう。その結果、敗北感だけが残ってしまう。

 これまでの本谷有希子の小説は自意識の疾走(暴走)を、女主人公の思考から語ってきた。主人公の自意識は女であったり、上京してきたことであったり色んなことに向けられていたわけだけど、どうしても女主人公=本谷有希子で読んでしまうし、経歴やインタビュー、その他テキストを読むとそれはだいたいあってるんじゃないかと思う。本谷有希子がどうしてこういった作品を書くようになったのかはわからないけど(他に書くことがなかったんだろう)、でも残念ながら人が自意識をこじらせていく様は共感する人以上に他の人から見て面白かった。それに気づいた本谷有希子は一度思考停止し、自分を自意識を切り売りすることで少しの安堵を得る、というのが前前作の『ぬるい毒』の結末だった。

 だからといって自意識を切り売りし続ければ売り切れてしまうかといえば問題はそう簡単ではなく、『自分を好きになる方法』ではその矛先は生活のより小さな、些細な出来事に向けられている。初老になった主人公は人前で自意識を持て余すさまを見せつけてはいないが自分の自意識を認めることでその過剰さを少しでも減らそうとする。また体力が落ちていくことで自意識を持ち続けることも難しくなってきている。しかしそれでも分かり合いたいと思ってしまう人との出会いは自意識が再起動してしまう。物語の最後には一見穏やかな生活が描かれているが、その裏に他の選択肢をとることのできない生活に満足しようとしている主人公の絶望というか諦念が広がっている(と思う。)生活に満足することは決して悪いことではないが、勝つことのない自意識との戦いに疲れて何も残らなかったという敗北感しか感じられないのだ。

 やっぱり自意識からは逃れられないのだろうか。でも切り売りするでもない方法があるんじゃないだろうか。すくなくとも24,34の頃の主人公の自意識はむしろ健全に、愛おしく見れた。

筒井康隆『聖痕』:筒井御大、お世話になりました。

聖痕

聖痕

 初めて筒井康隆の作品を読んだ時の衝撃は忘れられない。読んだのは『にぎやかな未来』だった。

 『にぎやかな未来』は筒井康隆お得意のむちゃくちゃな設定の短編集で、時間は止まるわ、子どもは泣き叫ぶわ、大人は交わりだすわ、畸形が出てきて、もうあれな短編集。けっして筒井を代表するような短編集とは言えないらしいけど、当時小学生低学年の自分にとっては読んでいたどの本よりぶっとんでいたし、かつどこか批評的だったり、残酷な描写が出てくるのにもかかわらず笑える作風に一発でやられた。確かメタ構造(そんな呼び方があることすら知らなかったけど)を初めて目にしたのもこの本だ。家にあったのは三一書房版で、角川書店版よりも表紙には派手さ(今思うと下品)があって、それもガキの自分にとってはよかった。『にぎやかな未来』に夢中になった後、筒井をあがめうやまったが、当時から本をずっと読むような集中力はなく父親の本棚にあった数冊を読んだけで終わってしまった。何を読んだかは忘れた。(『くたばれPTA』は読んだ覚えがある)

 早熟な子どもという存在。両親がエリートで大金持ちであったりして恵まれた環境に生まれ、さらに卓越した頭の良さを見せ、しかも美形という、フィクションでしかありえないだろ!というような子どもがとして登場する。具体的にはどの作品にそんな子どもが登場してきたかはこれを読んだ人が自分で確認してもらいたいんだけど(記憶力が悪くてほんと申し訳ない)、『聖痕』の主人公貴夫は、帯にある通り美貌には特化しているけど、まさに上の条件に当てはまる子どもとして描かれている。そしてふたつめ、純粋で完璧な子どもに対比されるように、魅力的な快楽、官能の世界とそれに溺れる大人、権力、銀座にある高級料亭(笑)、といった大人の世界が用意されている。そして同時に描かれるのが魅惑的な世界に渦巻く下劣な人間の側面。

 両方に共通する、世俗から切り離されたその実在感のない特権階級によって形作られた世界は幻でしかないけど、それと同時にその世界はまさにその特権階級を中心として世界全体が動き、魅力的に描かれている。だけどそこには他の階級の人間は入り込むことが出来ない、高貴な主人公に愛されたものだけその他の特権階級と接触することができるのだ。神筒井康隆の手によって守られた、選ばれた人だけの子どもと大人の世界、これが自分の理想の世界として無意識の内に脳に刻まれていたようだ。当然、現実の自分は親はエリートでもなければ、頭も良くなければ、美形でもない。どれだけ憧れようとそうではない自分変えられないのだ。中学生の自分はそれが分からず、いつかは特権階級のひとりとして振る舞うことになるのだとどこかで思い込んでいた。(今でいう厨二病的な感じだろうか…)

 初めて筒井の本を読んでから数十年、その間に筒井は日本を代表する作家、御大でありながらライトノベルも出して、筒井康隆はやっぱりすごいと思わせるような著作も出していた。なかなか作家先生がラノベなんて書けないよ。思い返してみると発売させたリアルタイムで買って読んだのは『聖痕』が初めてだ。今、久しぶりに目にした筒井康隆の世界はどうだろうか。小さい頃に読んでしまった経験がまだ少しは魅力的に見せてくれる。でももう憧れることはない。

*1:http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20130618-OYT8T00578.html