すべての本は歌詞カードになる

 これまでいろんな本を読んできたのに、世界に対する理解が広がったり深まったりしたように思えない。例えばMみたいに論理的に説明したり、「これを理解した」というようなことが言えない。それは頭が悪いからだとか、記憶力がないからだとか、読書の目的を明確にしていないからだとか言ってきたし、こういう指摘はいくらでも当てはまるんだけど、いま、ふと、どんな本でもそれが哲学書でも、科学書でも、小説のように何かを〈体験〉するように読んでるのではないかと思った。何か見識を身につけることが実は目的ではなかったのだ。哲学書を読んでいるまさにそのとき、科学書を読んでいるまさにそのとき、詩集を読んでいるまさにそのとき、それぞれ独特の感覚が頭の中に広がる。そのそれぞれの文体に脳を刺激することばの魅力があって、それに病みつきになる。  もし本を、文章を意味内容論理ではなく、文体が刻み織り成す音韻やリズムで読んでいるならば、すべての本は詩集、歌詞カードになる。そんな読書を通しては音韻とリズムに同化できても、意味内容に対しては無抵抗の受容しかできず、理解が進まないのは当然だと思ったり。

追記)少し前に、本を読むのは、じぶんに都合の良い意見を読むことでじぶんを肯定するためだと考えたことがあったけど、こういうときは意味内容で文中で都合のいいところだけ読んでいる気がする。